中国近代史

中国近代史・中華人民共和国の成立

日本は万里の長城より南には領土的野心はなかったが、北京などに部隊を置いてハプニングが起きた。1937年7月7日、北京近郊の盧溝橋で日中に偶発的衝突事件(盧溝橋事件)が発生し、これが徐々に拡大していく。一般に日中戦争と言うときはこの事件を開始とし…

中国近代史・中国国民党と中国共産党

袁世凱が死亡すると、中華民国政府の実権は軍閥に握られるようになり、混迷を深める。 軍閥政府に対して、孫文は東京で結成された秘密結社的な中華革命党を、1919年に中国国民党に改称し、後に蒋介石がこれを引き継ぐ。 多方、五・四運動の過程で共産主義者…

中国近代史・(史料)21ヵ条要求

第一次世界終盤ででドイツに戦線布告し、その勢力範囲の青島を占領して袁世凱に5項の要求を突き付けた。 (1) 山東省のドイツ権益の継承 (2) 満州:東部内蒙古での日本権益 旅順:大連の租借期限、 南満州利益期限の99年間延長 (3) 漢台洋光示の日鹿共同経営 …

中国近代史・袁世凱の行方

清王朝は12代297年で滅びるとともに、孫文が臨時大総統の地位に就く。これを第一革命(狭義の辛亥革命)と呼ぶこともある。 この革命で2000年以上続いた中国の王朝体制は終わりを告げ、中国最初の(同時にアジア最初の)共和政国家が出現した、という大変革…

中国近代史・日露戦争の余波

義和団事件の際にシベリア鉄道を完成していたロシアは中国東北に出兵し、そのまま居座った。これに危機感を抱いた日本は、日露戦争に踏み切る。 戦場は主に中国東北部で、日本は辛うじて戦勝し、旅順・大連の租借権と南満州鉄道などの権利をロシアから引き継…

中国近代史・清朝の滅亡

1908年11月14日、清朝第11代光緒帝が毒殺(犯人不明)され、翌日には西太后も没する。光緒帝には嗣子がなかったため帝位は弟の子溥儀(ふぎ)が3歳で嗣ぐことになる。 他方、孫文らの蜂起はなかなか成功しなかったものの次々と各地へ広がり、蜂起組織は一致…

中国近代史・義和団事件

アロー号事件による天津条約でキリスト教が清朝内陸への布教を認められるようになると、各地で住民とのトラブルが発生し、時に教案と呼ばれる集団的事件に発展するようになる(「天津教教案」参照)。 ことに山東省においてはこの傾向が著しく、大刀会、梅花…

中国近代史・戊戌の変法

下関条約調印の年、科挙試験のため北京を訪れた康有為は、この機に皇帝に改革の必要性を上書を提出(広車上書)し、これに同調した光緒帝は康有為らの改革派を登用して戊戌(1898年)の変法を強行する。 しかし保守派はこの光緒帝による改革の混乱を逆手にと…

中国近代史・興中会創立

日清戦争の最中、ハワイ(王国)のホノルルにいた孫文は、「駆除韃虜(打倒清国)、恢復中華、創立合衆政府」をスローガンに、興中会(こうちゅうかい)という革命団体を立ち上げた。 孫文より8歳年上の康有為(こうゆうい)は、満州族による支配否定を優先…

中国近代史・日清戦争

日清戦争は朝鮮が清国の属国だったのを日本が開放するとの名目のもとに行われた闘争だった。こう書くと、現代人の目からはいかにも日本に正義があるように見えるが実態は違う。 第一に、当の朝鮮は清国の地位に不満があったわけではない。むしろ日本に独立を…

中国近代史・北洋水師の創設

日本との台湾戦争で海防の必要性を感じるようになった清朝は、北洋通商大臣兼直隷総督・李鴻章の主導で北洋水師(艦隊)を創設した。 艦隊の主力艦としてドイツから7000トン級の定遠と鎮遠を中心に西欧から艦船を買い入れ、短期間に世界第八位の海軍を整備す…

中国近代史(資料)・年表

1840 阿片戦争(~1842南京条約) 1851 太平天国(~1870年代) 1856 アロー号事件 1858 愛琿条約 1861 辛酉政変・総理衙門の創設 1862 同治中興(~1874) 1870 天津教案 1871 日清修好条規 1874 日本の台湾出兵 1884 清仏戦争(~1885) 1888 北洋水師の創設 1894 …

中国近代史・清仏戦争

清国はベトナムを藩属国として宗主権を主張していたが、フランスはそのベトナムを植民地化しようとして清国と衝突した。これが清法戦争(法は中国語ではフランス)である。 フランス海軍は清国海軍の根拠地福州を攻撃すると、台湾、寧波を封鎖、澎湖島を占領…

中国近代史(資料)・太平天国の経過

1850年 金田蜂起 ▶満州族支配の清朝を倒そうとする洪秀全を中心にした拝上帝会が、広西省の金田村で蜂起、翌年、太平天国を国号と定める。 ーーーーーーーーーー 1853年 太平天国が南京を占拠 ▶太平天国軍は北上して湖北省の省都武昌を陥落させると、勢いに乗って南京…

中国近代史(資料)・阿片戦争の経緯

1838年 林則徐が欽差大臣となる ▶イギリスからの阿片流入に対して、それを容認する意見(弛禁論)もあったが、道光帝は阿片厳禁(厳禁論)を主張する林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命。 ーーーーーーーーーー 1839年 林則徐が阿片を没収・焼却 ▶イギリス商人が持っ…

中国近代史・日清修好条規と台湾出兵

大平天国が終息間近になったころ、日本は明治維新をなし、近代化を急いで清国に日清修好条規の締結を求めて実現する。 その主な内容は、①相互に外交使節を常駐、②相互に領事裁判権を承認、③相互の領土の不可侵、など対等なものであった。 しかし、この条約は…

中国近代史・辛酉政変

アロー号事件で清朝は避暑山荘に避難するが、この地で第9代咸豊帝は崩御する。 咸豊帝は死の直前に皇太子載淳の補佐を側近の八大臣に命じたが、載淳は西太后が産んだ子だったことから八大臣による補佐に西太后は不服で、咸豊帝の正室だった東太后らを味方に…

中国近代史・外交機関の設置

アロー号事件による北京条約でイギリスとフランスは清朝に対して外務省の設立を強く求めた。 中国の外国に対する姿勢は朝貢を前提としてきたため、諸外国におけるような国家としての一元的な外交組織は存在していなかった。礼部(朝貢国との通商事務)、理藩…

中国近代史・アロー号事件

太平天国が続く最中に広東でまたイギリスとの間にトラブルが生じた。阿片密輸船アロー号を清朝官憲が検査した際に、イギリスは清朝官憲が国旗を侮辱したとしてフランスと共同で出兵したのだ。だが、この事件の本当の原因は、イギリスが清と阿片以外の貿易が…

中国近代史・太平天国の乱

1850年、広西省(現広西チワン族自治区)金田村に1万人規模の一揆が起きた。キリストの弟と名乗る洪秀全が上帝会と称する宗教組織を率いて起したのだ。 上帝会は翌年から太平天国と名を改め、満州族の支配をよしとしない者などの参加を急増させ、1953年には…

中国近代史・阿片戦争

西暦1616年に満州族のヌルハチによって建国された清朝は、第4代康熙帝、第5代雍正帝、第6代乾隆帝の時代になって最盛期を迎える。だが、西洋文明に無関心だったツケがまわり、第8代道光帝の時代になって西洋諸国による侵略を受けるようになる。その最初の大…