中国近代史・アロー号事件

太平天国が続く最中に広東でまたイギリスとの間にトラブルが生じた。阿片密輸船アロー号を清朝官憲が検査した際に、イギリスは清朝官憲が国旗を侮辱したとしてフランスと共同で出兵したのだ。だが、この事件の本当の原因は、イギリスが清と阿片以外の貿易が進展せず北京で交渉ができないことに強い不満を抱いてことだった。
この事件は阿片戦争後に再び清英の紛争となったことから第二次阿片戦争とも呼ばれるが、阿片問題には直接関係がないので、この名称は不適切ではないか。
この戦争では最初英仏軍が敗れるが、英仏軍は態勢を立て直すと、北京に乗り込んで円明園を焼く暴挙に出るに至った。これにより、ともかく紛争は収束に向う。
事後処理は北京条約に集約され、清は天津の開港、イギリスへの九竜半島の割譲などに応じるほかなかった。