中国近代史・義和団事件

アロー号事件による天津条約でキリスト教清朝内陸への布教を認められるようになると、各地で住民とのトラブルが発生し、時に教案と呼ばれる集団的事件に発展するようになる(「天津教教案」参照)。
ことに山東省においてはこの傾向が著しく、大刀会、梅花拳といった反キリスト教の非合法組織の活動が拡大・活発化する。これらの組織は義和団の名称のもとに連繋するようになり、北京の各国大使館の集まる地区(東交民巷の使館区)を包囲するに至る。
北京に使館を置く八か国は連合して使館区を守る軍隊を派遣する。清朝義和団の勢いに押されて各国に宣戦布告するが、50日余りで敗れ、西太后は皇帝を伴って西安に逃亡する。
この事件は日本では北清事変、中国では庚子事変などとも呼ばれるが、実態は戦争である。また、八か国連合軍に最も多くの兵を出し貢献したのは日本だった。