中国近代史・戊戌の変法

下関条約調印の年、科挙試験のため北京を訪れた康有為は、この機に皇帝に改革の必要性を上書を提出(広車上書)し、これに同調した光緒帝は康有為らの改革派を登用して戊戌(1898年)の変法を強行する。
しかし保守派はこの光緒帝による改革の混乱を逆手にとってクーデターを画策する。西太后を味方につけ光緒帝の実権を取り上げて変法派を徹底排除することに成功し、康有為らは辛うじて日本に亡命する。
このクーデターは戊戌の政変とも呼ばれる。また変法は百日余りで挫折したため百日維新とも呼ばれる。これは変法派が日本の明治維新に倣おうとしたことからの命名でもあった。