中国近代史・袁世凱の行方

清王朝は12代297年で滅びるとともに、孫文が臨時大総統の地位に就く。これを第一革命(狭義の辛亥革命)と呼ぶこともある。
この革命で2000年以上続いた中国の王朝体制は終わりを告げ、中国最初の(同時にアジア最初の)共和政国家が出現した、という大変革であった。
だが中国の実権は北京の袁世凱に握られていく。孫文は再び革命運動を組織化し国民党を結成する。多方、独裁強化に対し黄興や李烈鈞らは挙兵して第二革命となるが、この動きは鎮圧され失敗に終わる。
次いで、袁世凱中華民国大総統として、第一次世界大戦の勃発で中立を宣言したが、この戦争に加わった日本は二十一カ条の要求を突き付け、袁世凱は受諾するが激しい反対運動にさらされる。打開策として袁世凱は自ら皇帝となる帝政宣言を発したが、逆に帝政反対の声が巻き起こり第三革命となる。日英露仏の列強も袁世凱の帝政に反対したため袁世凱は失意の内に1916年に死亡した。