中国近代史・興中会創立

日清戦争の最中、ハワイ(王国)のホノルルにいた孫文は、「駆除韃虜(打倒清国)、恢復中華、創立合衆政府」をスローガンに、興中会(こうちゅうかい)という革命団体を立ち上げた。
孫文より8歳年上の康有為(こうゆうい)は、満州族による支配否定を優先したため、数年後の戊戌変法で光緒帝を担ぎ出したのとは方向性が異なる。
孫文は翌年清に戻り、広州で合衆国設立を目指して蜂起するが、蜂起前に清朝側に情報が漏れて失敗する。だが一方で清朝打倒を掲げる湖南省の華興会と上海の光復会を興中会と一本化して中国同盟会を設立する。このとき孫文が唱えたのが後に三民主義と言われる「民族主義民権主義民生主義」である。
広州蜂起で清朝に追われた孫文は日本に逃亡し、これが孫文と日本との繋がりとなり、以降の蜂起では時に日本の支援者の援助を受けている。