中国近代史・外交機関の設置

アロー号事件による北京条約でイギリスとフランスは清朝に対して外務省の設立を強く求めた。
中国の外国に対する姿勢は朝貢を前提としてきたため、諸外国におけるような国家としての一元的な外交組織は存在していなかった。礼部(朝貢国との通商事務)、理藩院(藩部やロシアとの通商)、両広総督(広州での貿易事務)などが個別に対外事務を行い、それ以外に外国とのトラブルが生じた場合などには欽差大臣を臨時に任命してその場をしのいでいた。たとえば阿片戦争における林則徐は阿片問題を処理するためだけに任命された欽差大臣だった。
イギリスやフランスに外交機関の設置を求められた清朝は、史上初めて総理各国事務衙門(総理衙門または総署とも)を設置する。
ただし総理衙門は決定権を持たず、決定は皇帝(実質的には西太后)あるいは総理衙門の推進役だった恭親王にあり、恭親王が失脚後は西太后に信頼の篤い李鴻章に長く委ねられた。
このため諸外国は交渉を李鴻章に絞るようになり、やがて総理衙門の意義は次第に薄れていくことになる。
だがともかく総理衙門は中国の対外政策を大きく転換させた。