由来案内・両国橋

JR総武線浅草橋駅から神田川柳橋で渡り、大通りに出たところに、両国橋の由来を記した碑が立っている。

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明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した その時このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た このため対岸への避難の便を図り両国橋がかけられた 隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた また延焼防止のため橋に向う沿道一帯をひよ家地に指定し空き地とした やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称される盛り場に発展した 明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ 維新後百年を過た今日 まちの近代化はめざましく 広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが300年前日除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意によりこの碑を建てた
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この碑はこの手のものとしては珍しい石碑である。
昭和44年に、碑にもあるように中央区日本橋両国町会によって建てられたもので、当時の皆さんの情熱が感じられる。
両国橋は、このすぐ東の隅田川に架かっており、これを渡ると両国になる。
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