中国近代史・洋務運動と同治中興

太平天国が収束に向い、西太后らによる辛酉政変も落ち着いてはきたが、日本の台湾出兵などもあり、朝廷内では「自強(強兵)」の機運が高まって、曾国藩李鴻章らが洋式兵器等の製造のための工場を立ち上げる。
さらに財政難を「富国」で解決すべく、炭鉱、紡績工場、電報局なども建設される。
こうした展開を一般に洋務運動と呼び、これを推進した人物を洋務派と称している。注意すべきは、このように呼ばれるのは、朝廷内にはこういった動きを不要のものと主張する守旧派も多かったからだ。
ただいずれにしても、同治帝即位から10年ほどは、太平天国やアロー戦争に代表される内憂外患が一応治まり、政治や社会が比較的安定したことから、後にこの時代を同治中興と呼ぶようになる。