中国近代史・天津教案

アロー号事件の事後処理として締結された天津条約以降、欧米各国の宣教師によるキリスト教の布教活動が始まった。すると各地で住民とキリスト教会との間にトラブルが頻発するようになった。
そんな折、天津で幼児が失踪する事件が相次いだ。民衆の間では、教会が幼児を連れ去り薬にしているとの噂が広まり、役人と神父とで話し合いが行われ、フランスの駐天津領事が駆けつける騒ぎになった。
このとき領事が発砲したため、怒った民衆は領事を殺してしまう。
その後、フランスを中心とする7ヶ国艦隊が総理各国事務衙門に圧力を加え、清に補償金を支払わせた。
これ以後、民衆のキリスト教に対する反発はなお高まり、紛争の規模も大きくなっていく。