由来案内・手児奈霊堂

「真間の継橋」のすぐ北には「手児奈霊堂」への参道の入口があり、市川市教育委員会による由来書がある。
f:id:seizantei:20190518052621j:plain

■■■
奈良時代のはじめ、山部赤人下総国府を訪れたおり、手児奈の伝承を聞いて、
「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処」
歌ったものが万葉集に収録されている。
手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の7世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着した所が生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に仕える巫女であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。
万葉の時代から今日に至るまで多くの作品にとりあげられた真間の地は、市川市における文学のふるさとであるといえる。
■■■

手児奈霊堂では毎年7月にほおずき市が開かれている。古くからのものかと思っていたが、40年ほどというからそうでもない。この日は日没から灯籠流しも行われという趣向もあるので、この日を調べて付近を散策してみたいところだ。