随筆・野島先生のこと

野島寿三郎先生と初めてお会いしたのは2000年の多分寒いころだったと思う。20年近く昔の当時、先生はまだ60代、自分は50そこそこだった。
お会いしたのは、総武線小岩駅近くの線路下の、まだ開店間もない小料理屋だった。店のママは銀座のスナックだかを引退してこの店を持ったのだと話していた。
数席のカウンターに2人だけ座れる極小の小上がりがあるだけの店だったので、客同士は初めてでもまずご挨拶となる。先生とも最初は挨拶だけだったが、数日後に再びお会いしたときは少し話をした。壁に数枚のビールのラベルを貼った風変わりな額を見つけたので、ママさんにどうしたのかと聞いたら、こちらのお客様に頂いたと先生に目を向けたのだ。
その時先生は「まあ2000円くらいにはなるよ」と妙な評価を披露した。そこから少し話が始まった。そのビールのラベルはすべて2000年表記のある各ビール会社のもので、集めるのは案外難しいという。それから、先生はテレビの「何でも鑑定団」というの番組に出演して古紙の鑑定をしたことがあるとかいうことだった。
その後、先生のご趣味であるという紙屑収集の足しになればと思い、その頃仕事でよく中国に行っていた際に入手したタバコの紙ケースを何度か差し上げていた。するとある時先生が本を出したと言って一冊を頂くと、その後書きに何と自分の名前を記していただいていた。
そんなこんなで、先生との付き合いは続き、数年後にその小料理屋が閉店した後は、自分の知り合いのスナックでお会いするようになり、さらにそのスナックもなくなると、自分が通い始めた中華居酒屋に顔を出してくれるようになった。
そうしてとうとう先生は80代半ばとなり、自分は60そこそこで思いがけなく肺がんを患い、おそらく先に逝くことになってしまった。
不思議な縁であって、一時は自分が先生の伝記を書いて差し上げるなどと豪語してみたが無論ならなかった。それでこの一編を残すことにしたという次第である。