中国近代史(資料)・林則徐小伝

林則徐は福建省に生まれ、地方官を歴任していたが、北京の宣南詩社というグループに属す詩人でもあった。
1837年には湖広総督に抜擢され、1838年に同光帝が全省の有力官僚に阿片の取扱いに関する意見を求めたところ同光帝に認められ、翌年、欽差大臣(特命大臣)に指命される。
同年、広州にいたイギリス商人の阿片をすべて没収し焼却処分する。
このときのイギリス側の反発に対して林則徐は広州で戦争の準備をするが、イギリス艦隊はそれを無視して北上し、北京の玄関口である天津を襲う。林則徐は、これに恐れをなした同光帝に罷免され、新疆に左遷される。
しかし、新疆での林則徐の評判はよく、やがて太平天国が起きると、太平天国平定の欽差大臣されるが、任地に赴く途中病死した。