由来案内・法華経寺

法華経寺の黒門を入ったところは普通の町並みだが、少し進むと赤門がある。
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正中山(しょうちゅうざん)法華経寺は、祖師(そし)日蓮の足跡(そくせき)がみとめられる日蓮宗の霊跡(れいせき)寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷(やわたのしょうやなかごう)と呼ばれ下総国守護(しゅご)千葉氏の被官(ひかん)である富木常忍(とみきじょうにん)と太田常明(おおたじょうみょう)が館(やかた)を構えていました。彼らは曽谷郷(そやごう)の曽谷氏とともに、日蓮に帰依(きえ)してその有力な壇越(だんおつ)となりました。時に鎌倉時代の中期、建長(けんちょう)年間(一ニ四九~五五)頃のことです。
彼らの館には持仏堂(じぶつどう)が建立(こんりゅう)され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺濫觴(らんしょう)です。若宮の富木氏の館は法華寺(ほっけじ)、中山の太田氏の館は本妙寺(ほんみょうじ)となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺を名乗るのは、戦国時代の天文(てんぶん)十四年(一五四五)以後のことです。
富木常忍は出家して日常(にちじょう)と名乗り、法華経寺の初代貫首(かんしゅ)となり、二代目は太田常明の子日高(にっこう)が継ぎました。そして千葉胤貞(たねさだ)の猶子(ゆうし)である日裕(にちゆう)が第三代貫首となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日裕の後押しをしています。日裕は胤貞の亡父宗胤(むねたね)の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞千葉氏の氏寺(うじでら)とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となります。
法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」「観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」
の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(しょうぎょう)(ぶってん)類が保管されています。これは千葉氏のもとで文筆(ぶんぴつ)官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。現在は境内の奥の堅牢(けんろう)な聖教殿(しょうきょうでん)で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。これを紙背文書(しはいもんじょ)と言います。これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著作の料紙(りょうし)として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
寺内にはその他、重要文化財の法華堂(ほっけどう)・祖師堂(そしどう)をはじめとする堂舎絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したというニ子浦(ふたごのうら)(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されています。これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。
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赤門から先は寺内寺(院)の並ぶ参道になる。この参道は桜並木で、春には花見客でちょっとした賑わいを見せる。