由来案内・真間の井と亀井院

手児奈霊堂の通りを挟んだ北側に亀井院がある。その本堂の裏の小さな日本庭園の奥に真間の井と伝えられる古井戸がある。
f:id:seizantei:20190520112222j:plain

■■■
万葉の歌人高橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞いて、
葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
葛飾の真間の井を見るといつもここにたって水をくんだという手児奈が偲ばれる)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
亀井院は寛永12年(1635)真間山弘法寺の11世日立上人が弘法寺貫主の隠居寺として建立したもので、当初『瓶井坊』と称された。瓶井とは湧き水がちょうど瓶に水を湛えたように満ちていたところから付けられたものである。
その後、元禄9年(1696)の春、鈴木長頼は亡父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木院と呼ばれるようになった。
長頼は当時弘法寺の17世日貞上人と図り万葉集に歌われた『真間の井』、『真間の娘子(手児奈)の墓』、『継橋』の所在を後世に継承するため、それぞれの地に名文を刻んだ碑を建てた。本寺の入口にあるのがその時の真間之井の碑である。
長頼没後、鈴木家は衰え鈴木院の名称も、また亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現れたからといわれている。
北原白秋が亀井院で生活したのは、大正5年5月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯で最も生活の困窮した時代であった。
『米櫃に米の幽かに音するは
白玉のごと果敢かりけり』
この歌は当時の生活を如実に表現している。こうした中にあって真間の井に関しては次の一首を残している。
『蕗の葉に亀井の水のあふるれば
蛙啼くなりかつしかの真間』
その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ、離れを借りて暮らしたが、これを紫烟草舎とよんでいる。
■■■

きれいで静かな庭に、寺の中から読経が聞こえてくるときがあり、一時現世を離れられる。